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 古書店街の片隅にひっそりと看板を出しているその喫茶店は地下に店を構えていた。黒檀で統一されたテーブルと椅子は内装の欠かすことのできない一部を構成しており、調和のとれた明度の低さが歴史の重みを含んでたたずんでいる。カウンターとテーブル席が三つばかりあるだけの店内は静かだった。
 ズズズ、と珈琲をすする音がした。壁際のテーブル席には男が二人向かい合って座っている。この店を商談の場に選ぶサラリーマンは珍しくなかったが、ソファの側に深く腰掛けている男の服装はとても勤め人には見えなかった。
 紺のスウェットの上下に深緑のパーカーを羽織り、足元には履きつぶしたスニーカーが情けなくぶら下がっている。対面する男のほうが上品なスーツに身を包んでいるのとは対照的だ。スウェットの男はもう一度カップを口の高さに持ち上げ、すこしためらうような素振りを見せてからまた一口すすった。
「お口に合いませんでしたか」とスーツの男が尋ねる。
「いや」と応答があった。「苦いのは苦手なんですが、口をつけないのも失礼だと思ったので」
「言ってくだされば。気が回らず申し訳ありません」
「いや」そう言って男はまた珈琲に口をつけた。「こちらこそ、こんな大切な話の場に、礼服の一つもなくて申し訳ない。スーツは、いま少し、その、洗濯中でして」
「構いませんよ」
「それで、お話というのは」
 つかの間、壁時計の針の音が狭い店内を支配した。すぐにカウンターの奥に座った学生のページをめくる音が静寂を切り払う。
「そうですね、単刀直入に申しましょう。村井様、過去を変えたいと思ったことはございませんか」
 村井、と呼ばれた男の視線が宙をさまよう。何かに耐えているように。
「誰にでも変えたい過去の一つや二つあるでしょう」
「ええ。ええ」スーツの男の丁寧に撫でつけられた髪が照明の明かりを反射して光る。「わたくしどもはまさにそのような商売をしておりまして」
「過去を変えてくれる、と言ったように聞こえました」
「荒唐無稽な話だとお疑いになるのも無理はありません。過去あっての現在、そうそう変えてよいはずがありません。ええまったく。まったくその通りです。このような話、最初に詐欺を疑うのが正気というものです」
「そうでしょうね」スウェットのほつれた袖が机の上を所在なげにうろついたのち、意を決して右手がカップを掴む。
「すみません、紅茶を一杯いただけますか」とスーツの男が店主に呼びかける。
「無理に苦手なものをお飲みにならなくても。どうか遠慮なさらず」
「ああ……ありがとうございます。とりあえずお話を聞こうと思いますが」
「これはありがたい。と言っても本当にたいしたことでは、いえ実際たいしたことではあるのですが、先ほど申し上げた通りなのです。まだ詐欺をお疑いだと思います。ですので、お支払いは過去を変えた後で結構です。必ずお支払いいただけますので。ええ」
「それは、どんな過去でも変えられるのですか」
「そうですね、正確には過去の自分に戻る、という形になります。そのため時間の限度としては村井様が十二歳のころまで、となります。それよりも幼い時期となると、記憶を引き継げない恐れがございますので」
「はあ」
「いかがですか。よろしければ、実際の手順や、お支払いのことについて詳細をお話しさせていただきたく思います。資料も持参しております。ご興味があるということでしたら、続けてご説明いたしたいと思います。もちろん決断は今すぐにとは申しません。内容にご納得されてからで構いません。さすがに年単位でお待ちすることはできませんが、数か月であればとことんご検討いただいても……」
「お待たせしました」
 店主が紅茶を机に置く。カチャ、と陶器の触れる音が空気を震わせた。
「いえ」と村井が口を開く。「決めました。お願いしたいと思います。過去を変えたいと思います」
「よろしいのですか? まだ具体的な方法やお値段のお話もしていませんが」
「この機会を逃すことはできません」
「さようですか。もちろん村井様がそうおっしゃるなら構わないのですが、いちおうご説明は継続いたします。いましばらくお付き合い願えれば……ところで、村井様がそれほどまでに変えたいと願う過去は、いつなのですか? いずれお聞かせ願うことですが、順序を変えて先にお聞きする無礼をお許しください」
「ああ……」と紅茶には手をつけず、珈琲をゆっくりすすって顔を上げる。
「私が変えたいのは、昨日です」

「昨日、とおっしゃいましたか」
「ええ。昨日です」
「いや、しかし。昨日、ですか」
 スーツの男はハンカチで額を抑える。
「できませんか」
「いえ、できないというわけではないのですが、なにぶん前例がないというか、その、もったいないとは思われませんか。わたくしどもは同じお客様と二度商売をさせていただくことはありません。だから村井様にとってはこれが最初で最後の機会でございます。良いのですか。後悔なさっていることはありせんか。今までのお客様の多くは人生の重要な転換点となった出来事の数年前に戻られました。あるいは金儲けをしたいとおっしゃって現在の情報をもって過去に戻られた方もいます。こういった話の常として、結局うまくいかなかったのだろうと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。確かにうまくいかなかった方もいます。けれど多くの方は後悔をやり直して、前よりも良い人生を歩んでいらっしゃいます。本当に良いのですか。一度しかない機会です。誰にでもお声がけしているわけではありません。大学受験を、就職活動を、やり直してみたくはないですか。あるいは別れた恋人などいらっしゃいませんか。失礼を承知で申し上げます。いまの村井様が成功しているようには思われません。しかし人生は一度の違いで大きく変わるものです。村井様の人生を幸福なものにする転機も必ずございます。わたくしどものほうではそういった、人生でもっとも重要だった転機をお調べすることもやっております。あるいは過去に戻ったあとのサポートもございます。どうですか。大学受験、就職活動、恋人……」
「確かにやり直したいと思うことはあります」とスウェットの男はつぶやくように言葉を繋いだ。「私は大学受験も就職活動も失敗した男です。人生で一度だけできた彼女とも結局うまくいきませんでした」
「それなら」
「私は未来が見えます」
 壁の時計が十二時ちょうどを告げる。古めかしい振り子時計の秒針はお構いなく時を刻み続ける。十二時であろうが、そのほかの時間であろうが、秒針にとっては同じ一秒でしかない。
「私は未来を見ることができます」と村井は繰り返す。続いて陶器の触れる音が聞こえる。
「どうすればどうなるか、あらゆる行為の結果をあらかじめ知ることができます。この力を自覚したのは中学生のころです。目をつむって、行為する自分を思い浮かべる。それからその先――言葉にしにくいのですが、先、というしかありません。とにかく先を思い浮かべると、その行為の結果がわかります。未来に進むたびに選択があります。はじめはできませんでしたが、いまでは複数の可能性を一覧することもできます。解像度はだんだん荒くなっていきますが、だいたい十年先くらいまでなら、理解できる程度の解像度を保っています」
「わたくしもこういった商売をしております。人智を超えた事物が存在することはよく知っておりますが。しかし村井様。なぜ、その力を使って成功なさらなかったのです? その力があれば余人にとっては困難な試練も、村井様には何ということもなかったはず。あらかじめ正解を知っているのですから。わたくしは正直、村井様が冗談をおっしゃっているようにしか思えません」
「そうでしょうね。だから誰にも話したことはありません。昔は力への誇りから、いまは――笑われるのがオチだからです」
 そう言って村井は自嘲的な笑みを口の端に浮かべた。
「力を示す方法はいくらでもあります。けれどどうしても手品じみたものになる。それよりは、私の失敗を話したほうがわかりやすいと思います。多くの人が望むだろう力を得て、私がどうしてこんなことになったか」
「村井様がよろしいのでしたら、お聞きします。わたくしとしても、お客様のことは知っておくに越したことはありません」
「それでは」村井は姿勢を正した。「きっと面白い話でもありませんが」

 どこからお話ししましょうか。そう、まずは未来視を得たころのお話をするべきですね。その頃の私はなんといったらいいか、年頃の中学生なら避けては通れない、そういう幼稚な全能感に酔いしれていた時期でした。力を得る前から、自分は特別な存在だと信じていました。成績はそこそこといったところでしたが、それだけのこと。運動も美術も音楽も人並みで、特にこれといった才能はありませんでした。どこにでもいる普通の中学生です。いまならわかります。当時の私もうすうすわかってはいました。自分がどこにでもいる凡人の一人でしかないと。だから実力以上に自分を高く見せたがり、あるいは大人ぶった言動をしてそのことを嘘だと信じ込もうとしたのかもしれません。
 そんな中学生があるとき特別な力を手にした。得意になりましたよ。やっぱり自分は他のやつらとは違うんだ。選ばれているんだと。未来を見ることができるというのは圧倒的でした。学業成績はどんどん向上し、運動でも試合形式なら負け知らずでした。相手がどう動くのかわかるのですから。さすがに目立ちすぎてしまったので、そのうちセーブするようになりましたが。内心では皆をバカにしていました。未来もわからないやつらが私に敵うわけがないと。
 私は中高一貫の私立に通っていました。といってもトップ校ではありません。「そこそこの」という形容が常に付きまとうような、そういう学校でした。高校に上がり、周りが少しずつ大人になっていく中で、私は子供のままでした。未来視があればだいたいのことはできました。試験の内容はあらかじめわかっているのだからそこだけやっておけばいい。そのころにはだいぶ応用がきくようになっていて、たとえば「学校に行く」という行為をアンカーに、未来で試験を受けている自分の視界を見ることができました。許されないような行為でも、想像の中では可能です。そうやって他人の秘密を知ることもできました。
 数年が過ぎました。そのころは毎日が楽しかったですね。高二の冬、周りがだんだんと受験勉強を始めたころになっても、私は安穏としていました。成績は相変わらず維持していたし、この力があれば楽勝だと思っていたのです。けれどそれは間違いでした。
 受験というのは積み重ねです。いやそれは受験だけに限らないでしょう。人生というのは地道な積み重ねです。昨日の自分を超える、なんてわざわざ気取った言い方をしなくても、そんなことはみんなわかっています。私はわかっていなかった。その日、その夜、久しぶりに長期の未来を見て、私は愕然としました。あれだけ開かれていた可能性は半分以上が黒く塗りつぶされてアクセスできなくなっていました。私は半狂乱になって道を探しました。私の未来はどこだ、あったはずの未来はどこだ、と。
 希望は失われたわけではありませんでした。まだそこにあったのです。しかしその道筋は細く細く、わずかな失敗、わずかな妥協をも許さない茨の道でした。もちろんこれは力におぼれて遊び呆けていたツケです。いままで積み重ねてこなかった分を一年と少しで積み上げようというのですから、並大抵の努力ではききません。私は恐れをなして方針を転換しました。最難関を狙うのはやめよう、もう少し手頃なところで妥協しよう、と。そんな妥協に逃げたような人間が目標を完遂できるわけがない。一度の妥協は次の妥協をなし崩し的に招来しました。ずるずると自分が滑り落ちていくのがわかりました。抗う方法はわかっていたのに私はそれを実行する勇気も覚悟も根気もありませんでした。やるべきだとわかっていたのに、やらなければならないという焦燥だけが募って、確実にわかっている、見えている、いま目の前にある有効な対策を打つことはできませんでした。
 最終的に落ちるところまで落ちた私は、最後の手段に出ました。一次試験のマークシートは、未来視があれば有利に埋めることができる。もうそのころには「簡単に」とはいかなくなっていましたが。最後の最後、土壇場で参考書と問題集を叩き込みました。本番では一問埋めるたびに、試験後すぐに自己採点をする自分の未来を見て答えを確認しました。時間の制限もあります。すべてというわけにはいきません。そうやって、なんとか八割五分ほどの得点を得、その結果をもって、私はある私立大学への切符を勝ち取りました。
 ああ。これで一安心だ。ここから立て直そう。そんな考えが通じるほど世の中は甘くありませんでした。
 大学に入ってからが本当の破滅の始まりでした。講義の内容がわからない。教授が何を言っているのかさっぱり理解できない。もちろん、積み上げてくるべきものを積み上げていない私に、応用的なことや専門的なことが理解できるはずがありません。当たり前です。レポートが書けません。まず課題図書に何が書いてあるのかもわからない。試験はほとんどが記述式でした。とうぜん書けるはずがありません。卑怯な根性が染みついていた私は何とかして単位を取り続けました。友人の答えを内容もわからぬまま、適当にいじったり削ったりして提出しました。レポートは剽窃だとわからぬように、複数の友人のものを切り貼りしました。
 もはや真面目に講義に出る気などありませんでした。出ても出なくても大した違いはない。そうして、真面目に何かをやるなんてことはまったく放り出してしまった私にとって、何もかもが一瞬の夜の街は魅力的でした。夜の街では、私は無類の強さを誇りました。先が見えるのですから。久々にこの力が活きる時間を得て、私はずぶずぶとからめとられていきました。そのころにはもう生活はぐちゃぐちゃでした。
 そんなころ、彼女と出会いました。彼女は大学の同期で、ゼミが同じでした。気高い人でした。何に対しても真摯で、知的で、誠実で、それでいてユーモアを忘れない、そういう人でした。でも私は、私は彼女の身体にしか興味がありませんでした。彼女は目を引く美人でした。人気もありました。だから、あるいはお高い彼女を堕とせたら自慢になるだろうかと、どちらにせよ私はその程度のことしか考えていませんでした。
 未来を見ることができれば、誰かに好意を持ってもらうことは難しくありません。適切なタイミングで、適切な行為を。真摯な対応、そっと手伝う、気遣う。そうしたささいなことの積み重ねです。もちろん評判も重要です。だから私は夜の街での遊びを控え、外から見れば学業に熱心になったように振る舞いました。その実は友人らの功績の切り貼りを、自分のものにしていただけだったのに。それでも彼女を手に入れるまでの辛抱だと思いました。やがて彼女は少しずつ私を意識してくれるようになりました。しかしあと一手足りませんでした。あと少しのところで停滞してしまったのです。焦った私は、そしてついに、人としてやってはいけないことに手を出しました。未来を見て、彼女が暴漢に襲われるように仕組みました。そうして私は颯爽と現れ、彼女を窮地から救うヒーローを演じてみせました。果たせるかな、これが決定打となって、彼女は私に異性としての好意を寄せるようになりました。
 それからの日々は人生最後の幸福だったといまになって思います。私のような人間には、決して許されてはいけなかった幸福だったと。彼女は素晴らしい人間でした。本当に。皆の信頼厚く、学業優秀で機知に富み、優しく正しく美しかった。私はそんな彼女を支配しているという薄暗い歓喜に悶えました。そして彼女の身体をむさぼる日を今か今かと待ち続けました。未来は見えていました。その日がいつかもわかっていました。そして運命の日がやってきました。
 静かな夜で、月がきれいだったことを覚えています。恥ずかしげにうつむく彼女の横顔を眺めていたときどんな気持ちだったかはもう忘れてしまいました。あの日のディテールは剥がれ落ちてしまって見つけることができません。未来をいくら見ることができたって、大切な過去を覚えておくこともできないんです。私は彼女を得ました。女性とセックスするのは初めてでした。ずいぶんと激しく交わったように思います。彼女の顔が歪むのを忘れることはないでしょう。ああ。大丈夫だ。まだ覚えている。覚えている。そうして事を終えたあと、私は彼女と目を合わせました。
 刹那、耐えがたいほどの羞恥と罪悪の感情が私を包みました。
 自分がこの世でいちばん醜い生き物だと思いました。地上で最も醜悪な怪物にさえ劣ると思いました。これほど美しい人を、私は、薄暗く腐臭を放つ私という泥で汚してしまったのだと。犯すべきでないものを取り返しのつかない形で食らってしまったのだと。善悪も美醜も理解できない、理解してはならない私のような生き物が彼女を台無しにしてしまったのだと。騙して、嘘をついて、自分のものでない功績に、持つべきでなかった力にすがって穢してしまったのだと。わかっています。彼女に対してこの上なく無礼なことを言っているのは。彼女の美しさは私などに傷つけられるものではとてもない。だからあの日、あの夜、私が感じたものの正体は畏れでした。私などでは何億の可能性を試しても及ばないものがあると知ってしまった。彼女がどうか存在しないでほしいと、心から願ってしまった。そうして私は、静かに涙を流しました。どうしようもなかったんです。本当に。
 それからしばらくして、彼女とは別れました。本当は彼女が私のことを骨の髄まで嫌うように、私の本性をさらけ出してすべてを告白するべきだったのでしょう。けれど私のみじめな虚栄心はそれを許しませんでした。私は結局、一度ならず二度までも彼女を騙し、人間の誠実を裏切りました。
 これから先はたいして語ることもありません。私は卑怯に単位を取り続け、そうして結局、私は就職に失敗しました。そのころにはもう何か努力しようというつもりもなくなっていました。大学受験の破滅が見えてきたときにはまだ焦燥がありました。それすらも失った私は、最善策を知りながら、最悪手を打ち続けるような生活をしていました。
 以来、今日までアルバイトを転々として食いつないでいます。未来はあまり見ません。見たところで、できもしない最善策が目に痛いだけだからです。それにもう私には望むことがほとんど残っていませんでした。私はこの生活に安住しました。不満も苦痛も、酒と未来視を組み合わせた陶酔の中で紛らわすことができます。方法は……言う必要もないでしょう。私にしかできない陶酔ですし、私にしか必要のない陶酔です。そういうわけで、なんの話だったか、そうだ、未来を見ることのできる男が破滅していくまでの、これが過程です。

 語り終えると、村井はのろのろと背もたれにもたれかかって息を吐いた。一つ、二つ、何かを数えるように。スーツの男は黙って、自分の側の珈琲を手前に引き寄せた。
「それで、村井様。その」
「どこから変えるべきなのか、でしょう。わかりません。未来視が良くなかったことはわかっています。でもこの力をどうして手に入れたかもわからないのですから。戻ったところで今より悪くなるだけでしょう。もしかしたらあなたにはわかるのかもしれない。でも望みません。これは私という人間にとうぜん科されるべき罰です」
「ええ。村井様がそうお考えであることはよくわかりました。けれど、ならばなぜ昨日を変えたいとおっしゃったのですか。わたくしはまだ、その答えを聞いておりません」
 口の中で何かを噛みつぶしたような顔をして、村井が呻く。
「私は未来を見ることができます。だから私は今日ここに来れば、過去を変えられることを知っていました」
「それは――」
「私は昨日、人を殺しました」
 カラン、と入り口のドアにかけられた鈴が鳴った。カウンターに座っていた学生が勘定を済ませ、店を出たところだった。張り詰めた空気が支えを失って崩れ落ち、スーツの男が口を開く。
「それは、その、殺人をなかったことにしたい、と?」
「そうです。まだ言っていませんでしたね。私が殺したのは、昔付き合っていた彼女です。先ほどお話しした。名前を真帆、真実の真に船の帆の帆で真帆といいます」
 そうして村井は、冷めてしまった珈琲を涙目で飲み干すと、ぽつりぽつりと語り始めた。

 彼女から電話があったのは一週間前のことです。どうやって番号を突き止めたのかもわからない。けれど彼女でした。忘れるはずもありません。あの声でした。優しげな中に少しざらつきのある、それでいて魅力的な声をしていました。彼女は近況を訊ねてきました。残念なことに私には話すべき近況など何もありませんでした。だから私は訊き返しました。そちらはどうだ、と。卒業後、彼女がどこか新聞社に入社したということは風の噂で聞いていました。彼女が言うには、新聞社に数年務めたあと退職し、いまはフリーのライターとして東欧を中心に取材をしているのだということでした。彼我の差に絶望するようなことはもうありませんでした。ただ、彼女の声が過ぎ去った恥辱の日々を思い起こさせることだけが不快でした。
 彼女は私の境遇を噂に聞き、探し回って連絡を取ったのだと彼女は言いました。困惑しました。なぜ今さら、もう十年が経とうかという頃になって、まだ私のことなどを気にかけるのかと。電話口で私が黙りこくっていると、彼女は何を思ったのか、私にこう提案してきました。一度どこかで会えないか、と。
 なぜそんなことを言うのか、私はいよいよ訝しんで尋ねました。どうして私などを気にかけるんだ。あなたには生活や、仕事や、そういった大切なことがあるんじゃないのか、と。彼女は少し打ちのめされたように黙ってしまいました。沈黙が受話器から流れ出して私の耳を食い破り、脳を壊していくような時間が過ぎたあと、彼女はこんなことを言うんです。あなたは誠実で、真摯で、勇気がある人だった。就職がうまくいかなかったくらいで立ち止まり続ける人間ではない、と。
 全身の毛が逆立ち、血が沸騰して内側から組織が死んでいくような感覚がありました。思わずその場にへたり込んで、空虚な言葉を頭の中で繰り返すことしかできませんでした。それは私ではない。それは嘘なんだ。全部嘘なんだ。と。言ってしまうべきだったのかもしれません。けれど口をついて出たのはうめき声だけでした。彼女はそれから、早口で予定を尋ねました。私はもう抵抗することもできず、唯々諾々と予定が決まっていくのを意識の遠くのほうから眺めることしかできませんでした。結局、次の週の火曜日の夜に大学の近くの店で会おう、ということで話はまとまり、その日の会話はそれでおしまいになりました。
 その夜、久しぶりに未来を見ました。会いに行った未来では、細かく行為を弄って調整を繰り返しても、そのほとんどで私は彼女を殺していました。鈍痛のようにその光景は私を苛みました。私は彼女を殺してしまう。それでいて、積極的な手を打つ気力も私にはありませんでした。大丈夫。なんとかなる。心を強く持って、そうすれば、と。自分をも騙していました。
 約束の昨日、私は一着だけ残っていたスーツを引っ張り出し、丁寧に埃としわを取りました。髭を剃り、髪を整えてネクタイを締めました。久しぶりの遠出でした。大学に通っていたころとは違ってしまったものもあれば、変わらないままのものもありました。それらに心動かされることはほとんどありませんでした。約束の時間より少し早く待ち合わせの駅前についたのに、彼女は先に着いていて、私の顔を見ると駆けよってきました。彼女はあのころと何も変わっていないように思えました。変わらないね、でも少しやせた? そう言われて、何と答えたのだったかもう覚えていません。大切なことはすぐに忘れてしまう。とにかく店に向かおうということになって、私たちは並んで歩きました。そういえばあの夜もこの道を歩いたのだったな、とそんなことばかりが頭をよぎって、会話はほとんど上の空だったと思います。
 彼女は電話口でよりも詳細に、近況を語りました。その顔は抑えていても少し誇らしげな気持ちが表面にあふれていて、大学時代にレポートが高い評価をもらったときと何も変わっていないように思われました。彼女の仕事の意義深いことは私にもわかります。知られていない人たちの苦難に光を当て、世界が知るべきことを発信する仕事です。誇らしげに語るのも当然です。彼女はそれだけのことをしている。それから彼女は少し声の調子を変えました。これは前置きを切り上げて、本題に向かうときのいつもの癖でした。新聞社では周りの雰囲気になじめなかったこと。やめる踏ん切りがつかないまま、焦燥の日々を過ごしたこと。フリーになってからの数年は食っていくのも苦労したということ。そうして、けれどいまはあの決断が正解だったと思っているということ。そういったことを彼女は語りました。
 それから、彼女のやろうとしているプロジェクトに参加してみないかと誘われました。曰く、大学での専攻が役に立つのだと。曰く、同じゼミにいた人間とならば方法を共有できているから効率的なのだということ。それから少し言いにくそうに、けれど毅然と、一度挫折を知っている人間にこそ成し遂げられる仕事なのだと。彼女はそう言いました。
 わかっています。彼女に悪意の欠片もないことは。彼女は誠実で、真摯で、優しく、正しく、およそ欠点らしい欠点がない。けれど私は許せなかった。彼女のことを許せなかった。どうしてそんなに正しくあることができるのかと。未来を知ることもできないのに、どうしてそんなに強いのかと。
 彼女は私には眩しすぎました。未来を知ることもないのに、未来のために今を積み重ね、まっすぐに前に進む彼女はあまりにも気高くて耐えられませんでした。自分の存在がすべて否定されるような気がしました。私の罪さえも卑小に思われる。それがどんなことだかわかりますか。力を得ながらも、弱さゆえに逃げることしかできなかった私とは何もかもが違いすぎました。じわじわと光に蝕まれていった私の心はそして、その日の帰り道、未来視が映した通りに行動しました。
 ええ。ええ。そうなるとわかっていました。何度も何度も見た未来でした。それでも変えられると思ってしまったんです。変われると思ってしまったんです。私が積み重ねてきた唯一のものが、卑怯であると私はまだ認めたくなかったんです。
 私は路地で彼女を刺し殺しました。そこにナイフが落ちていることは知っていました。そうして、それを使えば自分が捕まることはないと知っていました。すべてを知ったうえで、私は粛々と、あの美しい人間を終わらせました。あの美しく、忌まわしく、他の人間を塵以下にしてしまう偉大な尊厳を殺しました。
 こんなところまで落ちぶれて、もう望むことなどないとうそぶいていた私はどうしようもない人間失格です。ああ、望むことはいくらでもあります。本当はやり直したかった。本当は成功と幸福を享受したかった。本当は彼女のようになりたかった。
 でももうその選択肢は残されていません。私がなすべきは、失ってはいけない、壊されてはいけなかった彼女をもとに戻すことだけです。それだけが、私が、私自身に許せる行為です。
 こうしてこの喫茶店の前を通れば、あなたに会えることはずっと前から知っていました。そういう未来があることはわかっていました。大学受験に失敗したときも、彼女に耐えられなくなったあの日も、就職に失敗したときも、ここに来ることを考えてみました。けれど来ませんでした。やり直してそれでもダメだったら、もうどこにも逃げられないと思ったからです。
 私の話はこれで終わりです。あとは私を過去に戻してくれるだけでいい。あなたがそれをしてくれることを、私はもう知っています。

 スーツの男はカバンから資料を取り出した。黒檀の机の上でプリント用紙の白が強烈な異物感を放っていた。
「わかりました。村井様には、過去をやり直す権利がございます。しかし――ご存じでしょうが、いちおう説明いたします。お支払いについて」
「ええ」
「最初に説明いたしましたように、この方法は過去の自分に戻る、というものでございます。しかしながら、仮に村井様一人が過去にお戻りになっても、そこには過去の村井様ご自身がいらっしゃいます。ですからこの方法は、厳密にいうならば村井様の精神を除いた世界全体を巻き戻す、というものになります」
 村井は紅茶に手を出そうとはしない。その代わりに、指をせわしなく交差させることで何かを抑えこんでいるようだった。
「この方法は、莫大なコストがかかるように思われますが、実はそれほどではありません。起爆剤さえあれば、あとは惰性で進む過程なのです。詳細には立ち入りませんが――そうでした。代金の話でございましたね。お客様には過去に戻ったあとでお支払いいただきます。代金は寿命です。さかのぼる過去の年数にかかわらず、というのも人間の知覚できる時間など宇宙全体の年齢からすれば誤差でしかないからですが、寿命十年分を頂戴することになっております」
 ゆっくりとうなずき、村井が同意の旨を示すのを見届けて、スーツの男は言葉を繋いだ。
「そして村井様、申し上げにくいのですが、村井様の寿命は残り九年ほどしかございません。一年分はおまけして差し上げますが、しかし、村井様は過去に戻ってすぐに死ぬ、ということになります」
「正確には」と村井が先を促す。
「さようでございます。ええ。正確には、過去に戻って数分で、村井様の寿命は尽きます」
 村井は立ち上がり、右手をスーツの男のほうへ伸ばす。
「では。問題がないようでしたらこちらにサインを」
 ペンを受け取った右手が、紙の上を走る。几帳面な字で名前が刻まれる。
「はい。確認いたしました。それでは契約成立となります。この度はわたくしどもの時間遡行サービスをご利用くださいまして、誠にありがとうございます。お客様のより良い人生を願って」
 その声を最後に、世界は巻き戻った。

 築数十年の木造アパートの一室に朝日が差し込んでいた。うっすらと舞う埃が光の帯を作っていて、そこに神聖を感じるかどうかは各人にゆだねられている。部屋の主は微動だにせず、天井を見つめていて、その表情からはいかなる感情も読み取ることはかなわない。ふっと目を閉じ、意識を集中させると、十数年にわたって見ていたありえたかもしれない未来はもうどこにもないことが彼にはわかった。
 閉じた目から涙があふれ、やがて止まった。

不適

 高二の夏、夏休みに入る少し前のことだった。夕暮れ時の教室は蒸し暑く、長く伸びたぼくらの影と遠くから聞こえる運動部の掛け声だけが、今でも奇妙に生々しく思い出される。

 おかしなことだ。本当なら、杉村さんの顔や声色を思い出すべきなのだろうに。けれどぼくはどうしてもそれを思い出すことはできないし、きっとそれが、ぼくの罪なのだと思う。思い出せるのは背景の雑音と、話した内容だけだ。

 ぼくは杉村さんに告白した。杉村さんは最初、ぼくの求めを断った。不釣り合いだと彼女は言った。ぼくが否定すると、彼女はこう応えた。

「わたしは『不適』だから。高校卒業と同時に『終了』することにしている」

 動揺は表に出ていなかっただろうか。ぼくはそれを知り得ない。

「……構わない。きっと君に、生きることを幸せだと思ってもらえるように。約束しよう」

 曖昧な記憶は、しばらくの逡巡ののち、杉村さんがぼくの求めを承諾したと伝えている。

 

 二十二世紀も半ばを越え、自己決定権は、今や大きく拡張されている。

 近代以降、人口は爆発的に増加し、それとはおそらく無関係に、倫理観もまた爆発的な向上を見た。あまたの正義が、倫理が、道徳が、勃興しては後進の踏み台となり、巨大な堆積をなす。

 数十年前にその堆積の頂上にあったものが、自己決定権だった。

 今となっては、人間に自殺の権利があることを疑う者はほとんどいない。誰もがそれを当然のように受け入れている。

 『不適』と呼ばれる人々がいる。さまざまな理由で、人生が苦痛である人々のことだ。人生に適さなかった人たち。前世紀ならばその語は、強い侮蔑を含むものとして糾弾されたかもしれないが、人生に適さないことが個性として受け入れられた現代では、その語に侮蔑を見出すことこそむしろ内なる差別意識の発露として受け取られる。適さないという言明は、事実を述べただけであっていかなる価値判断もそこにはない。とされる。

 運動に不適の者に運動を強いることは虐待である。ならば人生に不適の者に、人生を強いることは虐待ではないか。

 そうして政府は、不適の人間が、苦しまずに人生から解放される手段を用意した。『解放器』と俗に呼ばれるその装置は、市民に開放されている。もちろん、その使用は基本的には責任能力のある成人に限定されており、それは小学生が投票権を持たないのと同様の理由による。

 卒業を間近に控えたあの日、杉村さんは十八歳の誕生日を迎えていた。

 

 杉村さんと付き合い始めたあの日から、ぼくは彼女に、生きることの楽しさを知ってもらおうとした。彼女を遊びに連れ出した。映画を見に行ったし、総合遊戯場にも行った。彼女とできるだけ会話をするように努めた。ぼくらは小説の話で盛り上がったし、クラスメイトの噂話もした。一緒に勉強することも多々あった。

 杉村さんはぼくと付き合いだしてから、よく笑うようになった。ぼくは彼女のその変化を好ましいことだと思った。生きていれば、確かにつらいこともある。けれどこの世界には、喜びだって溢れている。世界はそんなに残酷であってはいけない。

 刷毛で描いたような雲が空に貼り付いていた秋晴れの日、ぼくらは連れだって港湾地区の公園に出かけた。

 港の水は澄んでいて、水母がゆらゆらと漂っていた。彼女はぼんやりと水面を眺めながら、ときおりぼくの顔を見て、それからまたあてもなく漂う水母の方に視線を戻した。

「水母は好き」と杉村さんは言った。

「わたしは水母が羨ましい。きっと、あんな風に生きることができたなら」

 それから小石を海に投げ込んだ。水の跳ねる音は聞こえなかった。

「何も考えないで済んだのに」

「……でも杉村さんは」ぼくは言葉を探した。「水母を好きだと言った。水母はきっと、何かを好きになったりしない」

「そうだね。わたしもそう思う」

 彼女がどんな表情をしていたか、ぼくはもう思い出せない。

 

 他者の内面は、決して知ることができないと、これはよく知られたことだ。隣に座っているクラスメイトが、内面があるかのように振る舞う機能を持っているだけのロボットだとしても、ぼくは彼を人間だと思うだろう。

 人間は、自分に置き換えて他者の内面を手前勝手に推し量る。殴られれば痛い。誰かが殴られているのを見れば、その痛みを想像する。共感によってぼくらは繋がっていて、お互いを内面ある存在と認め合っている。

 けれど他者の内面は、存在しないか自分と同じかの二択ではない。異質な内面というものもまた存在する。いや、他者に内面が存在するならば、それは自分とはきっと異質なものになるだろう。ぼくらはそのことを当たり前に受け入れていて、当たり前に忘れている。

 あなたの赤がわたしの赤であるかをわたしは知らない。わたしの赤はわたしの赤だ。

 

 高三になっても、ぼくらの関係は変わらなかった。幾人かの友人は、早く社会に出たいと言って受験の準備を始めていたけれど、多くの人がそうするように、ぼくもまた最後の年を高校生として生きることにしていたし、杉村さんもそうだったからだ。

 そうして春が過ぎ、雨季が去り、長い夏が来て秋は一瞬で終わり、冬もそろそろ明けようかというころ、ぼくらは高校生活最後のデートに出かけた。卒業は間近に迫っていた。

 待ち合わせの時計塔から少し歩いて、自走車を拾った。対面で乗り込むと、ぼくらは丘の方に自走車を走らせた。

「そろそろ誕生日だけど、何か欲しいものはある」とぼくは問うた。

「……特には。いまは思いつかない」

「何か考えておいて。迷っているなら、誕生日を過ぎてからでもいい」

「わかった」と彼女は微笑んだ。

 沈黙が車内を支配していたけれど、ぼくにとってその沈黙は苦ではなかった。

 丘のふもとで自走車を降りた。上まで乗って行ってもよかったけれど、歩きながら杉村さんと話したかったから。

 ぼくらはゆっくり坂道を上った。とりとめもないことをいくつか話したように思うが、内容はもう忘れてしまっている。

 展望台から見た街並みは、夕日を浴びて輝いていた。水平線の少し上に夕日が叫んでいて、海は金色の草原のようだった。

「きれい」杉村さんが呟いた。

 ぼくは何か言おうとして、結局言葉を呑みこんだ。この光景の前では、ぼくの言葉はどうしたって不釣り合いだと思ったから。

「あの海の下には水母がいる」

 杉村さんは手すりにもたれかかってそう言った。

「水母はきっと、この景色を見ないし、見ても何もわからない」

 ぼくもその通りだと思った。けれどぼくの思いは、杉村さんのそれとは大きく違っていたのだろうと、今のぼくは素朴にそう考えている。

 一週間後、三月九日の金曜日。卒業式を二日後に控えたあの日、杉村さんは自分自身を終わらせた。ちょうど二日前に、彼女は誕生日を迎えていた。

 

 杉村さんが自分自身を終わらせてからひと月後、いまだ混乱と悲嘆の中にあるぼくのもとに、彼女の遺書が届けられた。

『この手紙は、わたしが終了してからちょうど一カ月であなたのもとに届くようにとお願いしていました。変わらずお元気ですか。お元気であればよいなと思います。

 あなたを傷つけるのは本意ではありません。けれどきっとこの手紙はあなたを深く傷つけると思います。だから望まないなら、今ここで読むのをやめてください。わたしはそれでも一向に構いません』

 ぼくは震える手でゆっくり紙をめくった。

『読み進めているということは、傷つく覚悟があるということだと思います。だから直截に言います。わたしはあなたを嫌っていましたし、憎んでいます。

 わたしは昔から、人の頼みを断るのが本当に苦手です。和を乱すのが本当に怖いです。だからいつもヘラヘラしています。わたしが不適なのはこういう理由です。人間の中で、社会の中で暮らせばわたしはいつもつらい思いをします。わたしは本当は人の頼みなんて聞きたくありません。人間が苦手です。何もしないで、独りでぼんやりするのが好きです。けれど和を乱すのが本当に怖くて、いつも断ることができません。

 だから一年半前のあの日、わたしはあなたの求愛を断れませんでした。本当は嫌だったけれど、あなたは真摯で誠実だったから、断ることができませんでした。

 あなたの善性は疑っていません。きっととても優しくて、とても誠実ないい人です。社会にいるべきなのはあなたのような人です。わたしのような不適の人間ではなく。

 最後は、ずっと前から決めていました。中学に上がった時にはもう、十八歳になって、成人したら、自分で選んで死ねるようになったら死のうと思っていました。だから残された日々は、せめて平穏に暮らしたかった。けれどわたしはあなたに平穏を奪われました。わたしは最後の時間を奪われました。

 あなたのせいです。でもあなたが悪いわけではありません。最後の時間とわかっていても、それでも断ることのできなかったわたしが悪いです。それだからこそわたしは不適です。ヘラヘラ笑ってその場を耐えるだけで、本当のことは何も言えないわたしはだから不適です。

 ジレンマです。不適だからあなたの求愛を断れなかった。でももしわたしがあなたのようにまともだったら、断ろうなんて思わなくてもよかった。

 だからやっぱりあなたが悪いです。悪意がないことはわかっています。でもやっぱりあなたが悪いです。

 わたしは水母になりたかった。いつか海を見に行ったとき、水母を見たと思います。あのとき言ったことがわたしの気持ちです。水母は何も考えないでいい。ただ漂っているだけでいい。何かを好きになんてならなくていい。わたしは彼らのように生きていたかった。

 でもわたしは人間でした。だから苦しみました。人間でなかったら苦しまなくてよかったのかは知りません。わたしは他者を知ることはできません。もしかすると水母も悩んだり苦しんだりするのかも知れない。けれどそれはどうでもいいことです。わたしの苦しみは、わたしが消えてなくなれば終わるからです。

 もっと世界が進歩したら、わたしのような人間も幸せに暮らせるのかも知れない。そう思うと羨ましくて仕方ありません。でもわたしはそれを待つことはできません。

 わたしはあなたを憎んでいます。でももう憎むのは終わりになります。死んだあとでも憎み続けることはできません。わたしは死にます。

 あなたには本当に、心の底から申し訳なく思います。わたしのためだけではなく、あなたのためにも、あの日わたしは断るべきでした。

 ごめんなさい。さようなら。

 追伸:この間の夕焼けは、素晴らしいと思いました。あなたが何も言わなかったから』

 

 それから二日後、ぼくはぼくを終了することにした。罪はあるけれど、これは自罰ではない。理由はただ、ぼくが不適だからだ。これ以上の罪を重ねないためにぼくは終わる。

 人生に不適の者に、人生を強いることは本当に楽しかった。ぼくはそういう種の不適だ。思えばぼくは杉村さんが幸福と信じて疑わなかった。自分が杉村さんを幸福にしているのだと思い上がっていた。ぼくは社会に生きることはできない。ぼくは過剰な共感を持ち、思考が自分の側に寄りすぎている。

 くだらないメサイアコンプレックスだ。おせっかいで、傲慢で、相手のことなど何も考えていない。誰かを助けるのも自分のためでしかない。杉村さんのことなんか、何も覚えていない。杉村さんのためではなかったから。杉村さんはぼくの自己満足のための対象でしかなかったから。

 そうしてぼくは一人の人間の幸福を殺した。

 ぼくには今でもわからない。どうして彼女が、そんなに人間を怖がるのか。どうしてそんなに人生をつらく感じるのか。わからないから相手を自分の側に引き込もうとした。だからぼくは不適だ。生きることにぼくは向いていない。正義でありたいのに正義ではありえない。過剰で異常な共感がぼくに他人を救わせてくれない。ぼくは他人を不幸にする。

 ぼくは不適の自分を終わらせる。せめてこれ以上、ぼくが誰かの幸福を殺さないように。

 さようなら。ぼくは人生がつらいわけではなかったけれど、誰かを殺し続けるよりは、死ぬことを選ぼうと思う。