不適

 高二の夏、夏休みに入る少し前のことだった。夕暮れ時の教室は蒸し暑く、長く伸びたぼくらの影と遠くから聞こえる運動部の掛け声だけが、今でも奇妙に生々しく思い出される。

 おかしなことだ。本当なら、杉村さんの顔や声色を思い出すべきなのだろうに。けれどぼくはどうしてもそれを思い出すことはできないし、きっとそれが、ぼくの罪なのだと思う。思い出せるのは背景の雑音と、話した内容だけだ。

 ぼくは杉村さんに告白した。杉村さんは最初、ぼくの求めを断った。不釣り合いだと彼女は言った。ぼくが否定すると、彼女はこう応えた。

「わたしは『不適』だから。高校卒業と同時に『終了』することにしている」

 動揺は表に出ていなかっただろうか。ぼくはそれを知り得ない。

「……構わない。きっと君に、生きることを幸せだと思ってもらえるように。約束しよう」

 曖昧な記憶は、しばらくの逡巡ののち、杉村さんがぼくの求めを承諾したと伝えている。

 

 二十二世紀も半ばを越え、自己決定権は、今や大きく拡張されている。

 近代以降、人口は爆発的に増加し、それとはおそらく無関係に、倫理観もまた爆発的な向上を見た。あまたの正義が、倫理が、道徳が、勃興しては後進の踏み台となり、巨大な堆積をなす。

 数十年前にその堆積の頂上にあったものが、自己決定権だった。

 今となっては、人間に自殺の権利があることを疑う者はほとんどいない。誰もがそれを当然のように受け入れている。

 『不適』と呼ばれる人々がいる。さまざまな理由で、人生が苦痛である人々のことだ。人生に適さなかった人たち。前世紀ならばその語は、強い侮蔑を含むものとして糾弾されたかもしれないが、人生に適さないことが個性として受け入れられた現代では、その語に侮蔑を見出すことこそむしろ内なる差別意識の発露として受け取られる。適さないという言明は、事実を述べただけであっていかなる価値判断もそこにはない。とされる。

 運動に不適の者に運動を強いることは虐待である。ならば人生に不適の者に、人生を強いることは虐待ではないか。

 そうして政府は、不適の人間が、苦しまずに人生から解放される手段を用意した。『解放器』と俗に呼ばれるその装置は、市民に開放されている。もちろん、その使用は基本的には責任能力のある成人に限定されており、それは小学生が投票権を持たないのと同様の理由による。

 卒業を間近に控えたあの日、杉村さんは十八歳の誕生日を迎えていた。

 

 杉村さんと付き合い始めたあの日から、ぼくは彼女に、生きることの楽しさを知ってもらおうとした。彼女を遊びに連れ出した。映画を見に行ったし、総合遊戯場にも行った。彼女とできるだけ会話をするように努めた。ぼくらは小説の話で盛り上がったし、クラスメイトの噂話もした。一緒に勉強することも多々あった。

 杉村さんはぼくと付き合いだしてから、よく笑うようになった。ぼくは彼女のその変化を好ましいことだと思った。生きていれば、確かにつらいこともある。けれどこの世界には、喜びだって溢れている。世界はそんなに残酷であってはいけない。

 刷毛で描いたような雲が空に貼り付いていた秋晴れの日、ぼくらは連れだって港湾地区の公園に出かけた。

 港の水は澄んでいて、水母がゆらゆらと漂っていた。彼女はぼんやりと水面を眺めながら、ときおりぼくの顔を見て、それからまたあてもなく漂う水母の方に視線を戻した。

「水母は好き」と杉村さんは言った。

「わたしは水母が羨ましい。きっと、あんな風に生きることができたなら」

 それから小石を海に投げ込んだ。水の跳ねる音は聞こえなかった。

「何も考えないで済んだのに」

「……でも杉村さんは」ぼくは言葉を探した。「水母を好きだと言った。水母はきっと、何かを好きになったりしない」

「そうだね。わたしもそう思う」

 彼女がどんな表情をしていたか、ぼくはもう思い出せない。

 

 他者の内面は、決して知ることができないと、これはよく知られたことだ。隣に座っているクラスメイトが、内面があるかのように振る舞う機能を持っているだけのロボットだとしても、ぼくは彼を人間だと思うだろう。

 人間は、自分に置き換えて他者の内面を手前勝手に推し量る。殴られれば痛い。誰かが殴られているのを見れば、その痛みを想像する。共感によってぼくらは繋がっていて、お互いを内面ある存在と認め合っている。

 けれど他者の内面は、存在しないか自分と同じかの二択ではない。異質な内面というものもまた存在する。いや、他者に内面が存在するならば、それは自分とはきっと異質なものになるだろう。ぼくらはそのことを当たり前に受け入れていて、当たり前に忘れている。

 あなたの赤がわたしの赤であるかをわたしは知らない。わたしの赤はわたしの赤だ。

 

 高三になっても、ぼくらの関係は変わらなかった。幾人かの友人は、早く社会に出たいと言って受験の準備を始めていたけれど、多くの人がそうするように、ぼくもまた最後の年を高校生として生きることにしていたし、杉村さんもそうだったからだ。

 そうして春が過ぎ、雨季が去り、長い夏が来て秋は一瞬で終わり、冬もそろそろ明けようかというころ、ぼくらは高校生活最後のデートに出かけた。卒業は間近に迫っていた。

 待ち合わせの時計塔から少し歩いて、自走車を拾った。対面で乗り込むと、ぼくらは丘の方に自走車を走らせた。

「そろそろ誕生日だけど、何か欲しいものはある」とぼくは問うた。

「……特には。いまは思いつかない」

「何か考えておいて。迷っているなら、誕生日を過ぎてからでもいい」

「わかった」と彼女は微笑んだ。

 沈黙が車内を支配していたけれど、ぼくにとってその沈黙は苦ではなかった。

 丘のふもとで自走車を降りた。上まで乗って行ってもよかったけれど、歩きながら杉村さんと話したかったから。

 ぼくらはゆっくり坂道を上った。とりとめもないことをいくつか話したように思うが、内容はもう忘れてしまっている。

 展望台から見た街並みは、夕日を浴びて輝いていた。水平線の少し上に夕日が叫んでいて、海は金色の草原のようだった。

「きれい」杉村さんが呟いた。

 ぼくは何か言おうとして、結局言葉を呑みこんだ。この光景の前では、ぼくの言葉はどうしたって不釣り合いだと思ったから。

「あの海の下には水母がいる」

 杉村さんは手すりにもたれかかってそう言った。

「水母はきっと、この景色を見ないし、見ても何もわからない」

 ぼくもその通りだと思った。けれどぼくの思いは、杉村さんのそれとは大きく違っていたのだろうと、今のぼくは素朴にそう考えている。

 一週間後、三月九日の金曜日。卒業式を二日後に控えたあの日、杉村さんは自分自身を終わらせた。ちょうど二日前に、彼女は誕生日を迎えていた。

 

 杉村さんが自分自身を終わらせてからひと月後、いまだ混乱と悲嘆の中にあるぼくのもとに、彼女の遺書が届けられた。

『この手紙は、わたしが終了してからちょうど一カ月であなたのもとに届くようにとお願いしていました。変わらずお元気ですか。お元気であればよいなと思います。

 あなたを傷つけるのは本意ではありません。けれどきっとこの手紙はあなたを深く傷つけると思います。だから望まないなら、今ここで読むのをやめてください。わたしはそれでも一向に構いません』

 ぼくは震える手でゆっくり紙をめくった。

『読み進めているということは、傷つく覚悟があるということだと思います。だから直截に言います。わたしはあなたを嫌っていましたし、憎んでいます。

 わたしは昔から、人の頼みを断るのが本当に苦手です。和を乱すのが本当に怖いです。だからいつもヘラヘラしています。わたしが不適なのはこういう理由です。人間の中で、社会の中で暮らせばわたしはいつもつらい思いをします。わたしは本当は人の頼みなんて聞きたくありません。人間が苦手です。何もしないで、独りでぼんやりするのが好きです。けれど和を乱すのが本当に怖くて、いつも断ることができません。

 だから一年半前のあの日、わたしはあなたの求愛を断れませんでした。本当は嫌だったけれど、あなたは真摯で誠実だったから、断ることができませんでした。

 あなたの善性は疑っていません。きっととても優しくて、とても誠実ないい人です。社会にいるべきなのはあなたのような人です。わたしのような不適の人間ではなく。

 最後は、ずっと前から決めていました。中学に上がった時にはもう、十八歳になって、成人したら、自分で選んで死ねるようになったら死のうと思っていました。だから残された日々は、せめて平穏に暮らしたかった。けれどわたしはあなたに平穏を奪われました。わたしは最後の時間を奪われました。

 あなたのせいです。でもあなたが悪いわけではありません。最後の時間とわかっていても、それでも断ることのできなかったわたしが悪いです。それだからこそわたしは不適です。ヘラヘラ笑ってその場を耐えるだけで、本当のことは何も言えないわたしはだから不適です。

 ジレンマです。不適だからあなたの求愛を断れなかった。でももしわたしがあなたのようにまともだったら、断ろうなんて思わなくてもよかった。

 だからやっぱりあなたが悪いです。悪意がないことはわかっています。でもやっぱりあなたが悪いです。

 わたしは水母になりたかった。いつか海を見に行ったとき、水母を見たと思います。あのとき言ったことがわたしの気持ちです。水母は何も考えないでいい。ただ漂っているだけでいい。何かを好きになんてならなくていい。わたしは彼らのように生きていたかった。

 でもわたしは人間でした。だから苦しみました。人間でなかったら苦しまなくてよかったのかは知りません。わたしは他者を知ることはできません。もしかすると水母も悩んだり苦しんだりするのかも知れない。けれどそれはどうでもいいことです。わたしの苦しみは、わたしが消えてなくなれば終わるからです。

 もっと世界が進歩したら、わたしのような人間も幸せに暮らせるのかも知れない。そう思うと羨ましくて仕方ありません。でもわたしはそれを待つことはできません。

 わたしはあなたを憎んでいます。でももう憎むのは終わりになります。死んだあとでも憎み続けることはできません。わたしは死にます。

 あなたには本当に、心の底から申し訳なく思います。わたしのためだけではなく、あなたのためにも、あの日わたしは断るべきでした。

 ごめんなさい。さようなら。

 追伸:この間の夕焼けは、素晴らしいと思いました。あなたが何も言わなかったから』

 

 それから二日後、ぼくはぼくを終了することにした。罪はあるけれど、これは自罰ではない。理由はただ、ぼくが不適だからだ。これ以上の罪を重ねないためにぼくは終わる。

 人生に不適の者に、人生を強いることは本当に楽しかった。ぼくはそういう種の不適だ。思えばぼくは杉村さんが幸福と信じて疑わなかった。自分が杉村さんを幸福にしているのだと思い上がっていた。ぼくは社会に生きることはできない。ぼくは過剰な共感を持ち、思考が自分の側に寄りすぎている。

 くだらないメサイアコンプレックスだ。おせっかいで、傲慢で、相手のことなど何も考えていない。誰かを助けるのも自分のためでしかない。杉村さんのことなんか、何も覚えていない。杉村さんのためではなかったから。杉村さんはぼくの自己満足のための対象でしかなかったから。

 そうしてぼくは一人の人間の幸福を殺した。

 ぼくには今でもわからない。どうして彼女が、そんなに人間を怖がるのか。どうしてそんなに人生をつらく感じるのか。わからないから相手を自分の側に引き込もうとした。だからぼくは不適だ。生きることにぼくは向いていない。正義でありたいのに正義ではありえない。過剰で異常な共感がぼくに他人を救わせてくれない。ぼくは他人を不幸にする。

 ぼくは不適の自分を終わらせる。せめてこれ以上、ぼくが誰かの幸福を殺さないように。

 さようなら。ぼくは人生がつらいわけではなかったけれど、誰かを殺し続けるよりは、死ぬことを選ぼうと思う。